被災地・宮城の旅録⑤(新浜地区)
2019/09/03 18:34
先ほどの話の続き。
柴犬を連れたおじちゃんの後、また2人のおじちゃんとお話しすることができた。
柴犬おじちゃんに言われた園芸センターに行き、たまたま通りすがった方に声をかけたところ、その人がセンターの所長をしているSさんという方だった。親切にセンター内を案内して下さり、なぜここで働くことに行き着いたのか、という話をしてくれた。
まず震災当時は、東京の自由が丘に住んでおり、日比谷公園のガーデニング設計などをしていたとのこと。しかし、故郷であった仙台が甚大な被害を受け、何か自分にできないだろうかという思いから今のお仕事に辿り着いたらしい。現在は、園芸センターの設備を整えているのはもちろん、地域の方が農業を始めやすいように人々に教育をしたり、地元の子供たちに向けてイベントを開催したりしているのだそうだ。
Sさんに、「震災から8年も経ってしまって、もっと早く被災地を訪れるべきだった気がする。なんでこなかったんだろう」ということを独り言のようにいった時に、「君とっては今このタイミングだったんだよ」ということを言われた。確かに、何度も被災地をいってみたいと思うことはあったが「時間がない」と言い訳にして来なかった。しかし今は、心に余裕ができて、未来について考えるためにいま被災地を訪れることが必要だったのだと思えた。なんだか、救われた。
その後、私に事業パンフレットや震災から園芸センターがどのように復帰していったのかという過程をまとめたスライドを印刷して下さった。もし興味あるならいつでもおいでね、と。(多分心配されてる…笑)
30分ほどお話しした後、車で周辺を回りながら説明をして下さり、荒浜の方まで送って下さった。
(道路兼防波堤が建設されている途中であること、防波堤を超えたところには家を建てられない決まりができたこと、代わりに県が農業やショッピングモールの建設を考えていること、津波避難タワーがたくさん建設されていること。)
お礼をいって、荒浜の方へ向かうと工事のおじちゃん(かすがさん)に声をかけられ、これまた長く話し込んでしまった。(お仕事中だったにもかかわらず…)
地震発生時はお仕事をしていたらしく、立っていられないくらい揺れたといっていた。そして、学生たちが海辺の方から走って逃げてきて「津波が来てるぞ!」の声とともに一緒に逃げたんだそう。実際に、荒浜には13.7mの津波が来たらしく慰霊碑菩薩の頭の高さが丁度その高さに作られているらしい。
(↑この地区の津波で亡くなった方々の名前が彫られていました。ちなみにこの像は2000万円相当で寄付されたものらしい)
話しを終え、荒浜の方へ行くと、天気が悪かったこともあり、海全体が大きな波音を鳴らしていた。また沖に3つほどの船とプロペラ音を鳴らしたヘリコプターが二機飛んでいて、なんだか妙な光景…。(何をしていたのかは分からない)
海に手を合わせ、旧荒浜小学校の震災遺構に向かおうとした時に、かすがさんが再度声をかけて下さり、名取の方まで車を出してくれた。(名取に行く予定のことを話していたので。目の前に旧荒浜小学校がありましたが、多分気遣って声をかけてくださったのでお言葉に甘えて乗せてもらった。)
名取の小さなショッピングモールのかわまちてらす閖上に着き、20分ほど見て回り満足。さあ旧荒浜小学校に行くぞ!と歩いたが、2時間弱かかった。つかれた、足が筋肉痛。
疲れたけれど、道中いろいろな土地の風景に出会えたのでよかった。
(↑津波で流されたものの、また綺麗に直されたとみられるお墓。稲穂畑とのコントラストがなんとも…)
(↑ちいさなかたつむりくん)
(↑この道が永遠に続いた…)
そして、名取から歩き始めて約2時間、旧荒浜小学校に到着。
(↑約8ヶ月後に100m離れたところで発見された二宮金次郎像)
(↑津波が2階まで来たのがわかる)