被災地・宮城の旅録⑫(陸前階上駅)

2019/09/05 12:58

 

13時半に陸前階上公民館前に到着し、その後、東日本大震災遺構・伝承館に向かいました。

その途中、陸前階上駅を通過したのですが、まさかの線路がない。地図上には路線があったので、勝手に電車が通っているものだと思い込んでいたので正直驚いた。

ここまで津波が到達して線路が使い物にならなくなってしまったからなのかな..と想像して、どき。

そのまま徒歩で、目的地に向かっている最中に早歩きで私を追い越していった50代ほどの女性がいたから、話を聞きたくて

目的地の場所がわかっているにも関わらず、「伝承館まではどう行けばいいんですかね...?」と声をかけた。

とてもご親切な方で、「散歩しているからちょうど良いわ」と、伝承館の目の前まで一緒にきてくれた。

 

スガワラさんという方で、後継娘をなさっているそう。しかし、本当は仙台に住みたくて堪らないのだとか。

「一人娘が故に自分がやらなければ、代々受け継がれてきたものが終わってしまうので仕方がない。でも本当はこんなところ出たいのよ、何もないし」といっていた。

バスからおりてずっと気になっていた、定期的に鳴る、花火が打ち上がる瞬間のような爆発音はなにかということをきくと、スズメが稲を食べるのを防ぐために60秒に一回のペースで音を鳴らしているそう。もうこの地域で昔からある手法なんだとか。スガワラさんも、小さい頃はこの音が怖くて、数えて稲穂畑を駆け抜けたらしい。今はうるせえとしか思わないみたいだけど。

 

また、電車が通っていると思っていた駅がバスだったことについて。震災を境に、電車からバスにかわったらしい。それは津波が原因ではなく、ただ利用者がほぼおらずJR側が赤字になってしまったからという理由。やはり、住人は車での移動が大半で、電車を利用していたのは、県外からの観光客と仙台に用がある人くらいらしい。私が16時半のバスを利用した際には部活帰り学生が8割で、ほぼ満席だったので需要があることはわかったが、電車を動かす必要はなさそうだった。

 


そして、印象的だったお話が二つ。

一つ目は、「震災前のこのあたりの景色が全く思い出せないのよ」という言葉。「ここの稲穂畑(津波がきた地域)は、震災前はどんな感じだったんですか?」と結構フランクに聞いてしまった。スガワラさんの言葉にどのような意味があるのかはその時、汲み取れなかったのですが、それ以上聞けなかった。ショック過ぎて記憶がなくなってしまったのかもしれないし、私に話したくないのかもしれないと思ったから。でも、そのあと、震災風景を撮っていた三陸新報のkさんという方とお話した際に、

「甚大な被害を受けたここにいる人ですら、当時のことを忘れていくのを感じる。だから、風化させないためにも写真を撮り続けているんだよ」といっていたのを聞いて、

「被害を受けた人たちですら、忘れていってしまうんだ」とスガワラさんの言葉の意味を理解できたように思う。

 

 

 

f:id:aknyku:20190927012313p:plain


(↑稲穂畑が広がる右側が浸水区域でお家は立てられないルール。逆に左側は浸水しなかったためお家がそのまま立っている。この右側の風景が思い出せないそう)

 

二つ目は、「何を再建しているのかもわからないし、大体復興が遅すぎるのよ。8年間毎日やっているのに、まだまだこれよ?」という言葉。なんだか、この復興の現状にスガワラさんは呆れているような印象を受けた。

再建場所の近くに住んでいるのに何をつくっているのかも把握していないのか、と思ったと同時にその再建計画の共有が地域内で行われていない可能性があるのかもしれないなと思った。

 

またkさんの話にもどるが、「国も県もこのような復興の取り組みがはじめてに等しいがために、地域の人と県や国とのすり合わせがうまくいっていない現状がある。お互いの意見を聞く前に行動にうつしてしまって、よく揉めているんだよ」といっていた。

そのあと実際に、工事をしていた方に聞くと、海沿い一帯に漁港をつくっているらしい。確かにパッと見た感じではまだ土台を整備している感じで、たしかに遅い印象。しかし、ここまで来るまでの過程を知らないので、一概にはいえないが。

 

 

 

f:id:aknyku:20190927012337p:plain


(↑漁港を作っているらしい)

 

三陸新報のkさんは、帰りの駅へ向かう道中であった20代後半くらいの男性の方。

遠目で写真を撮っているのが見えたので声をかけたところ、気づいてもらえず、近くまで行き声をかけた。

kさんは、地元が気仙沼らしく、震災をきっかけに三陸新報に就職することを決めたのだとか。それまでは気仙沼で教員をしていたらしく、震災発生直後は生徒の安否確認に追われたそう。

「人にものを教える仕事もとても楽しかったけれど、記録として残すことで今もこの未来でも誰かの役にたてるこの仕事はとてもやりがいがあるよ」と笑顔で話してくれた。

そして、私が東京から来たと伝えると、私のように観光で訪れる人がいることがとても幸せなことだと喜んでいた。

 

震災前は陸の孤島と言われるくらい外部からの人が来なかったらしく、震災をきっかけに足を運んでくれる人が増えたようだ。

 

「"震災をきっかけに"が少し複雑だけれど、気仙沼という土地を知ってくれることから本当の復興が始まる」

 

テレビで気仙沼の海鮮や風景をみて「あ、ここはいったところだ。」と思ってくれることから、まずは気仙沼という土地をしてもらうことから被災地の復興ははじまるのだと。

地域との繋がりができることで、そこの地域の問題が他人事ではなく自分ごとになる。また、そこの地域のことを周りに伝え、気仙沼という地を広めていくことが重要なのだと思う。

 

f:id:aknyku:20190927012538p:plain

(↑黒の部分から海側の風景写真を撮っていた熊谷さん。同じ位置からの震災直後の写真を見せてくれたが、津波で何もかも流され瓦礫が散らばっていた。ちなみに津波は私たちが立つ黒の部分よりも少し上まで来たらしい)