被災地・宮城の旅録⑨(バス内編)
2019/09/04 12:38
おじちゃん3人だけでなく、飲み屋で出会った人たちもみんな自分を持っていて素晴らしかったです。もちろん私の同級生も。まだまだ自分を認めきれてない私…って感じ。 さっきの文章を書いてから、あ、書くの忘れた!となって今これを書いているけど、これはどうやったら直せるんだろう。 文章を書く前に、書きたいことを紙に書き出してから書くのが有効なのか。悔しい。
被災地・宮城の旅録⑧(バス内編)
2019/09/04 12:32
昨日一日、仙台で過ごしたけれど、東京に比べて仙台の人は自分の考えに自信を持つ方(自分のことを好きな方)が多い印象。 とにかく自分がやりたいと思ったことや自分が幸せだと思うことを信じて今に至る人が多いような。昨日1日だけでこんなことを語るなよと自分にツッコミをいれましたが、とにかくそう思ったので書く。 かくかく
昨日1人目に出会ったおじちゃんも子育てをするために仕事を辞め、東京から帰郷。2人の坂本さんは、とにかく2年ほど住んでいた仙台の力になりたいと帰郷。 東京という街にいると、変化が怖くなる傾向があるような気がする。ある意味、東京での常識があるような気がしていて、みんなそこの常識に当てはまるように、ずれないようにしているように感じる。(主観だけど)なので自分で決断して、行動するお2人はすごいなと純粋に思った。 そして3人目に出会ったかすがさんは、本当に誰にでも奢ったり物をあげたりするそう。とにかく喜ぶ顔が見られればそれでいいんだとか。高い果物の前で購入を迷う人がいれば、安いルートで買ってあげたり、お仕事で出会う人に1.2kgの梨をみんなに配ったり。すごい。私も住所くれれば送るよと言われたくらい。 自分の考えに自信を持つためには、自分のことを好きでなければできないように思う。 そして自分は自分、人は人、という考え方があるからこそ、こちらの人は他人に優しいのかもしれない。(道行く人も然り、ホテルやコンビニの店員もびっくりするくらい優しい) という、独り言…
被災地・宮城の旅録⑦(バス内編)
2019/09/04 11:58
そういえば、母親に今回の旅の件を話したら 「向こうで就職先見つけてこないでよ、東京で就職しなさいよ」 と言われたのを思い出した。 そう言いたくなる気持ちも分からなくはないけれど、これもまた親のエゴだと思う。 例えばJR東海に就職で静岡に住むのは良いらしい。これはやはり大手や安定した会社に入ってほしいという含蓄があるのだとおもう。私のために言っている、というよりは、親が自身の体裁を気にしているというほうが正解かな…と。 両親は私に愛をたくさんくれるし、今まで育ててくれて感謝しかない。が、このあたりの価値観だけは真逆なのできつい。ニュースを観て思うことにしても、他人をどういう観点で見るにしても違う。距離があれば大丈夫だとおもうが…。最近は、母とはここについての考え方は違うなと思うと黙ってしまう〜。
と今ぼーっと考えていたこと。分かり合うのって本当に難しい。親であればなおさら。親が最大の味方であり、最大の敵感。
被災地・宮城の旅録⑥(バス内編)
2019/09/04 11:35
現在、気仙沼方面行きのバスの中です。
今日の予定では、気仙沼大震災遺構・伝承館、三陸復興公園へ行き、駅周辺散策 その後、南三陸町の志津川へ向かう予定。
昨晩は、こちらでウェディング関係のお仕事をしている同級生と夜を共に過ごした。 飲み屋に連れて行ってくれたのですが、私と同い年の子がお店の店長をしていたり、3つ下の子が歌手を目指していたり…とても気さくな方達でなんだか元気をもらった気がする。当たり前だけど、どこの土地に行っても、それぞれみんな頑張っていた。 東京にいると、周りの必死に生きる人たちと比較して勝手に落ち込んでしまったりするけど、居場所ってどこでも作ることができるし、自分が幸せと感じれば場所も他人も関係ないことを再確認。わたしの性格上からなのか、他人から相談をされたりすることが多いけど、相手の話を聞くこと、そして意見をするにしても、相手の考えを潰さずにコミュニケーションをとることが大事…。と思った夜だった。 (仲の良い子がダメダメダメ男と戻りたい、と言っているのを本気で止めてしまっている…彼女が好きならば、幸せならば仕方ないのかな…いや~でも…。)
被災地・宮城の旅録⑤(新浜地区)
2019/09/03 18:34
先ほどの話の続き。
柴犬を連れたおじちゃんの後、また2人のおじちゃんとお話しすることができた。
柴犬おじちゃんに言われた園芸センターに行き、たまたま通りすがった方に声をかけたところ、その人がセンターの所長をしているSさんという方だった。親切にセンター内を案内して下さり、なぜここで働くことに行き着いたのか、という話をしてくれた。
まず震災当時は、東京の自由が丘に住んでおり、日比谷公園のガーデニング設計などをしていたとのこと。しかし、故郷であった仙台が甚大な被害を受け、何か自分にできないだろうかという思いから今のお仕事に辿り着いたらしい。現在は、園芸センターの設備を整えているのはもちろん、地域の方が農業を始めやすいように人々に教育をしたり、地元の子供たちに向けてイベントを開催したりしているのだそうだ。
Sさんに、「震災から8年も経ってしまって、もっと早く被災地を訪れるべきだった気がする。なんでこなかったんだろう」ということを独り言のようにいった時に、「君とっては今このタイミングだったんだよ」ということを言われた。確かに、何度も被災地をいってみたいと思うことはあったが「時間がない」と言い訳にして来なかった。しかし今は、心に余裕ができて、未来について考えるためにいま被災地を訪れることが必要だったのだと思えた。なんだか、救われた。
その後、私に事業パンフレットや震災から園芸センターがどのように復帰していったのかという過程をまとめたスライドを印刷して下さった。もし興味あるならいつでもおいでね、と。(多分心配されてる…笑)
30分ほどお話しした後、車で周辺を回りながら説明をして下さり、荒浜の方まで送って下さった。
(道路兼防波堤が建設されている途中であること、防波堤を超えたところには家を建てられない決まりができたこと、代わりに県が農業やショッピングモールの建設を考えていること、津波避難タワーがたくさん建設されていること。)
お礼をいって、荒浜の方へ向かうと工事のおじちゃん(かすがさん)に声をかけられ、これまた長く話し込んでしまった。(お仕事中だったにもかかわらず…)
地震発生時はお仕事をしていたらしく、立っていられないくらい揺れたといっていた。そして、学生たちが海辺の方から走って逃げてきて「津波が来てるぞ!」の声とともに一緒に逃げたんだそう。実際に、荒浜には13.7mの津波が来たらしく慰霊碑菩薩の頭の高さが丁度その高さに作られているらしい。
(↑この地区の津波で亡くなった方々の名前が彫られていました。ちなみにこの像は2000万円相当で寄付されたものらしい)
話しを終え、荒浜の方へ行くと、天気が悪かったこともあり、海全体が大きな波音を鳴らしていた。また沖に3つほどの船とプロペラ音を鳴らしたヘリコプターが二機飛んでいて、なんだか妙な光景…。(何をしていたのかは分からない)
海に手を合わせ、旧荒浜小学校の震災遺構に向かおうとした時に、かすがさんが再度声をかけて下さり、名取の方まで車を出してくれた。(名取に行く予定のことを話していたので。目の前に旧荒浜小学校がありましたが、多分気遣って声をかけてくださったのでお言葉に甘えて乗せてもらった。)
名取の小さなショッピングモールのかわまちてらす閖上に着き、20分ほど見て回り満足。さあ旧荒浜小学校に行くぞ!と歩いたが、2時間弱かかった。つかれた、足が筋肉痛。
疲れたけれど、道中いろいろな土地の風景に出会えたのでよかった。
(↑津波で流されたものの、また綺麗に直されたとみられるお墓。稲穂畑とのコントラストがなんとも…)
(↑ちいさなかたつむりくん)
(↑この道が永遠に続いた…)
そして、名取から歩き始めて約2時間、旧荒浜小学校に到着。
(↑約8ヶ月後に100m離れたところで発見された二宮金次郎像)
(↑津波が2階まで来たのがわかる)
被災地・宮城の旅録③(新浜地区)
2019/09/03 10:58
先ほど、稲穂畑で柴犬を放して散歩しているおじちゃんと話すことができた。
荒井駅から東へ行ったところの、仙台東インターチェンジ超えたあたり。
途中まで一緒に歩こうと言ってくださったので10分ほどお話しした。
当時のお話を聞くと、津波がインターチェンジ道路まで来たのだそうだ。震災が起きた2時半ごろは、サイクリングで海沿いを走るのが日課だったそう。しかし、その日に菅直人の答弁があったかなんかで丁度家に居たらしく、比較的海から離れたところに居たらしい。
地震発生時、テーブルの上にあったコーヒーは地震の揺れと同じように揺れ、ただただ恐怖だったという。津波警報は発生時から少し経ってから発令されたらしく、おじちゃんたちは避難したみたい。でも津波警報が頻繁にでていて、それで来た試しがなかったために一度は避難しても、家に戻った人たちは亡くなってしまったそう。飼っている猫ちゃんは震災がトラウマになっているようで、少しの揺れでも怯えてしまうのだとか。
おじちゃんが最後に、美味しいラーメン屋さんと園芸センターをお勧めしてくれた