一年生
メモ的な感じでつらつらっと書きます
最近はいろんな人と関わる機会が増えました
去年から今年の初めにかけては、私が手狭で決まった人としか関わりがなかったのです
だから、最近はなんだかとても新鮮で楽しい
実は一昨日は久しぶりにサークルに少しだけ顔を出しました
正直めんどくせえと思っていたし、どうせ私は老害だから二次会のラストだけにしようと思って行きましたが後悔しました
純粋にとても楽しかった!楽し過ぎて、 ハイボール二杯でベロ酔いしてしまった
新しい顔が沢山あったし、新入生はこれからの生活に希望とか不安とかいろんな感情をもっていた感じの表情だったな
それを見てたら、自分の一年生時代を思い出して初心に戻ってしまった
毎日が出会いで、高校生の時には感じられなかった開放感とか、冒険心とか、世の中の闇闇っとした部分とか笑
あの時はもちろん憧れの男の先輩もいたし、年上の人たちと飲みに行ったり、夏の夜に遠出したりしたなあとか
今では日常のことになっているけれど、あの時の私は小学生が遠足に行くみたいな心持ちだった気がする
一年生が終わる頃には、生熟れの緑色のマンゴーがオレンジ色のマンゴーに成熟してしまったように全く新鮮味のない毎日になっていた
だからもう大学四年目の私は多分もう熟れ熟れマンゴーを誰かに食われてしまって種だけ残ってしまったんだと思う。
人生はいつでも初心を持っている時が楽しい
おばさんはなにもかもがプラトニックな一年生に嫉妬した!あの時の日々は宝物だし、大学一年に感じたものは絶対に忘れたくない!
でも、多少なりといろんな経験をしてきてしまった私は大学一年生のような生粋にはなれません…何かに純朴な私を見つけたい…
種をどこに埋めようかと迷っているところだ
毎日が伯仲し過ぎていた
初心を思い出させてくれた一年生ありがとうって感じだ
やりたいこと
一度の人生何したいかなあ
と最近よく考えている
仕事を死ぬ気でしてみたいし、結婚をして子供を持つ幸せも感じてみたい、そして喧騒から離れたところにのびのびと暮らして、カフェを開いてみたい。どこかのタイミングで世界一周にも行ってみたい
貪欲な女です
過去の自分は20代で絶対結婚するとかなんとか言ってたけれど、もう少し一人の時間を楽しみたいかもしれない(まず願っても出来ない説ある
でもここまで生きてきて、自分が理想とすることは全て叶うわけではないことを実感したのでなかなか複雑なのが実情である
なりたい人間像としては
影響を与えられる人間になること
経験を踏まえて自己を表現できる人にはとても惹かれる、私はそれを不得意としているからかもしれないけど
実際、人間は他人から影響を受けることによって形成されるものだと思っている
経験や知識がなければ相手に納得してもらうことはできないし、その説得力というものは経験値に比例するもの。なのかな〜
誰にしたって、同じことを話すにしても経験してきた人はその話の重みや雰囲気が違うやうな感じる
不思議であるが、そんなことはすぐにわかってしまう
だからたくさん経験をして、その上で
人に何かを発信していける仕事をしたいと思う
日本人が知らなければならないことは山ほどあるよねーわたしもなーんも知らないんだけど
そして30歳過ぎに幸せな結婚が出来たら満点だな
未来は分からないからけれど、二十代は自分に時間を使えたらいいですな〜。彼氏は募集中だよ
夏
清潔感であふれていたあの人も、
引っ込み思案だったあの人も、
ピュアだとおもってたあの人も、
周りから慕われてるあの人も、
みんな大きくなるとどんどんいろんなものに手をだすなあ
少し寂しい ような、なんだろうかこの感情は
大人になっていくと、人はいろんなことに恐れを感じなくなるね
もちろん、良い方面もあるのだけれど
変に勇気を持つというか、周りがやってるからってのもあると思うけど
周りと相互に作用して子供は大人になっていくわけだ
そして経験するにつれて、どんどん次の動作へのハードルが上がっていくような
これが大人になるということか
途中気触れてしまう時もあるだろうけど、経験を積むにつれて
あ、あれは間違えてたなって自分で気がついて
自分らしい生き方に軌道修正していけるのも大人だと思うんだ
まあでも人の本質はきっと変わらないから大丈夫だ、
私が謎にしょんぼりしても仕方ない
大人になっていく人たちと会話しても、やっぱり変わらないところがあるからそれでいいんだ〜
そういえば5月ですけど、もう夏ですね
ジメッとした温い空気とカンカン照りの太陽の光を浴びることでやっと、去年の夏の暑さを思い出すのです。
20回も夏を感じているはずなのに、不思議だね
眠くて何書いてるのかわからない〜おやすみなさい
SNSくん
気持ち悪い好奇心で1ヶ月ほどSNSを綺麗さっぱり消していました笑
単純にSNSが無くなったら自分はどうするのかって気になって
スマホを持ち出してから、ずっとSNSくんたちとお付き合いさせてもらっていたのでちょっと彼らと距離を置いて見ました。彼らに依存していた部分がありましたので。
結果的にどうなったかと言いますと、読まなかった新聞や本を読むようになりました。そして季節に敏感になりました笑
今まで世の情報たちを手軽にSNSから吸収していた部分が多くあったためだと思われます。今何が起きていて注目されているのかを知るためには必然的に活字を読まなければならなくなります
SNSだけの情報だと新聞や本などの情報よりも信憑性などにかけますし、物事を深く読み取ろうという気が失せます(私の場合)
SNSに書かれた短文で何もかもわかったように思えてしまうマジックにかかってしまいます(これも私の場合)
季節に敏感になったのは無駄に考えることが減ったからだと思います。情報収集でSNSをフル活用していたためです。刹那的で膨大な情報が目紛しく入れ替わりしているのがSNSです。そして残念なことにその情報たちの中にはたくさん死んでいる情報が含まれています。情報たちが生きているのか、死んでいるのかなど私たちは瞬時に見分けられるはずもありません。ネットサーフィンしまくって死ぬしかないです。
何が言いたいのかというと
情報収集にSNSを利用することは効率が悪過ぎる、ということでしょうか
ですがやはりSNSはとても革新的なものだと思っています
ポケベルが世の中に普及してきた後に1990年代にヤフーと楽天という大企業がでてきたわけです、そしてその後に誰でも書き込み可能な2ちゃんねる。ポケベルあたりから世界は猛スピードで変わってるはず
今までネットというものすらなかった昭和から一転、もはや世界のひとたちと繋がるツールができたのです。
世界に自己表現していける時代
他人の発信を見て、そこからその人の考えや価値観を得られるようになった時代ですね
昭和から平成にかけて、この変化は凄まじく大きなものであるに違いない
この1ヶ月を通して、とても新鮮な生活でSNSくんとはきっぱりお別れしてもいいかなあと思ったのですが
やはり私が今の時代に適合するためには彼らは必要不可欠であるということでした(やっぱり人間関係の構築ツールとしてはデカイことを痛感)
SNSくんたちに依存してしまえば大切な時間を食われかねないので
これからは小さな娯楽程度で上手に付き合っていきたいなあと思います
あー上海行きたいなあ
授業中
授業中です
いつでもこの人は声が小さい
どれだけアンケートにもっと声をあげてくれ
って書かれても変わらない
だから教授の声を聞くためにこの授業はいつもシンっとしてます
最近は調子がいいです
いいものが自分に返ってきているような気がします
でも幸せって感じ過ぎてもよくないと思うのです
自分が幸せで溢れてしまうと病み過ぎた時と同じように、心に余裕がなくなってしまいます
なので日常の中に隠れてるちょっとした幸せを見つけづらくなります
そしてまた、現実を見るよりも幸せに浸っていたいと思ってしまうので現実から目をそらしがちになります
でもやっぱり最近のわたしはついてると思う、幸せって思えてることが幸せだ
もう少しだけ浸らせておくれ〜
自分と他人
昔感じた幸せや悲しみ、憤りなどの記憶が
頭の中から消えていくのを近頃感じるようになった
大きく重たかった記憶の塊がどんどん小さくなっていって
最後には塵にまでなってしまって風に飛ばされてしまう感じ
2017年から2018年にかけての1年間は私にとって転機であった
人生の転機だった!なんて、いうのもなんだか今になるとはずかしくて
胸張って言えなくなってしまったけれど
過去の私は良くも悪くも自信に満ち溢れていた
挑戦してもがき悩んで苦しんでいる自分がイケていると思ってしまっている部分が少なからずにあったと思う
今はどうだろうか
1年間の海外暮らしのブランクに戸惑い、どうやってこれから自分を日本のコミュニティーの中で確立していこうかと一ヶ月間は息苦しい毎日を送っていた
単純に変わった自分を1年ぶりの人たちに見せるのが怖かった、私は人が好きな人間であるから人が離れていくのが恐ろしかった
でもその後は日本の生活に慣れてきて1年前と同じような時間の流れが戻ってきてしまったように思う
毎日大学に行き、夜は友人たちと飲み歩いて夜遅く帰って寝る。というサイクル
海外にいた時に比べて、なにもブレがなくなった
今感じるのはあの時、毎日にワクワクしていた感情が薄れてしまったということ
純粋にとても悲しい
半年ほど前に誰かが、記憶がどんどん薄れていってしまうのが怖いといっていた
ああ、あの言葉はこのことだと気づいた
あの時は、何をするにも挑戦して新しい感覚を感じられるのが
楽しくて仕方なかった。自分にできないことなんてないとさえ思ってしまうくらい自分に酔ってしまっていたから、失敗して落ち込んでも立ち直りは早かった
だが記憶が薄れていくにつれ、持っていた自信も比例するようになくなっていき、何をするにも臆病になってしまったような気がする
大学に入り、馬鹿っぽく自分を演じて誰からも好かれることで自分への自信にしていた。他人からの評価を自信や幸せの基準にしていたのだと思う。そうすることで自然に人前で胸を張って生きられるようなっていた
そのおかげか人を怖いと思うことはほとんどなくなったのだけれど
帰国してから急に自分という人間が落ちぶれたように感じた。そして久しぶりに人と関わることを恐れてしまった
1年休学していたことで他人から高く評価された。そりゃ英語力0だった人が一年間海外に行くとか言い出せば、こいつどうしたとなるだろう。
そんなことで私という人間のハードルが上がってしまってた分、
あってみたら全然こいつ変わってないじゃんと思われるのが嫌だった
だがこんな私に対して
人生の中でもちろん自分が主人公だけど自分は他人に生かされている。だから生きていく上で他人のことは大事にしなくてはいけない。人の関わりの中では自分自身に素直に生きられたらそれが自分にも他人にも一番の幸せだよ
といってくれた人がいた
最初、これを言われた時はまったく自分に落とし込めなかった
でも面白いことに毎日、このことを自分の中で復唱することで
実践できるようになってきたように思う
意識することで、日々の中でいろいろな他人の優しさや気遣いにも気づけるようになった
ニコニコっと笑う赤ちゃんからは癒しをもらって幸せを分けてくれるし、友人は私のいうことに対して面白おかしくポップに返してくれて悩んでたことも馬鹿馬鹿しいと思わせてくれるし、下手くそなソフトクリームを頑張って作ってくれたおばちゃんにありがとうと思えているし、母親は寝ている私に優しく毛布をかけてくれるし
こう感じられるようになった時に、初めて自分は人に生かされているのだと気づけた、自分は他人から大事にされているし、優しさに囲まれて生きている
この人たちは人に好かれようとしているわけではなくて、ただ自分自身に素直に生きていた 。私は何を悩んでいたのだろうか
何が言いたいというかというと、
人との関わりは思ったよりもシンプルであるということ。私が複雑に考えすぎていた
別に他人と自分は交わる必要はなくて、平行線で進んでいけばいい
誰からも好かれよう好かれようと生きていた過去の私は
周りからみれば、さぞかし滑稽で見るに忍びなかっただろう
他人からの評価を気にするとは、結局自分を守っていることになるから自己中と変わりない。私が人との関わりに悩んだ過去にしてきていたのはこれだった
自分に素直に生きて、それを取り囲んでくれるひとたちを大事にすること
そう思えたら、人生の大半は人との関わりであるから
人生って結構シンプルじゃない
ということ
生活音
生活音がする中で眠るのがすごく好きです
両親が家事をしていているとき。独り言を母親が話しながら1200ピースのパズルをやっているとき。父親がパソコンに向かってカチカチ何かをしているとき。両親がたわいも無いことで笑っているとき。そんな中で絨毯の上に寝っ転がって眠るのがとても心地よいです
幸せを感じます
今の季節は少しひんやりするから、床暖房を弱めにつけて
薄いタオルケットを被って
最初のほうは目を閉じて耳だけ起こしておくの
そうすると幸せな音がたくさん入って来て
いつのまにか寝ちゃうのよ