自分と他人
昔感じた幸せや悲しみ、憤りなどの記憶が
頭の中から消えていくのを近頃感じるようになった
大きく重たかった記憶の塊がどんどん小さくなっていって
最後には塵にまでなってしまって風に飛ばされてしまう感じ
2017年から2018年にかけての1年間は私にとって転機であった
人生の転機だった!なんて、いうのもなんだか今になるとはずかしくて
胸張って言えなくなってしまったけれど
過去の私は良くも悪くも自信に満ち溢れていた
挑戦してもがき悩んで苦しんでいる自分がイケていると思ってしまっている部分が少なからずにあったと思う
今はどうだろうか
1年間の海外暮らしのブランクに戸惑い、どうやってこれから自分を日本のコミュニティーの中で確立していこうかと一ヶ月間は息苦しい毎日を送っていた
単純に変わった自分を1年ぶりの人たちに見せるのが怖かった、私は人が好きな人間であるから人が離れていくのが恐ろしかった
でもその後は日本の生活に慣れてきて1年前と同じような時間の流れが戻ってきてしまったように思う
毎日大学に行き、夜は友人たちと飲み歩いて夜遅く帰って寝る。というサイクル
海外にいた時に比べて、なにもブレがなくなった
今感じるのはあの時、毎日にワクワクしていた感情が薄れてしまったということ
純粋にとても悲しい
半年ほど前に誰かが、記憶がどんどん薄れていってしまうのが怖いといっていた
ああ、あの言葉はこのことだと気づいた
あの時は、何をするにも挑戦して新しい感覚を感じられるのが
楽しくて仕方なかった。自分にできないことなんてないとさえ思ってしまうくらい自分に酔ってしまっていたから、失敗して落ち込んでも立ち直りは早かった
だが記憶が薄れていくにつれ、持っていた自信も比例するようになくなっていき、何をするにも臆病になってしまったような気がする
大学に入り、馬鹿っぽく自分を演じて誰からも好かれることで自分への自信にしていた。他人からの評価を自信や幸せの基準にしていたのだと思う。そうすることで自然に人前で胸を張って生きられるようなっていた
そのおかげか人を怖いと思うことはほとんどなくなったのだけれど
帰国してから急に自分という人間が落ちぶれたように感じた。そして久しぶりに人と関わることを恐れてしまった
1年休学していたことで他人から高く評価された。そりゃ英語力0だった人が一年間海外に行くとか言い出せば、こいつどうしたとなるだろう。
そんなことで私という人間のハードルが上がってしまってた分、
あってみたら全然こいつ変わってないじゃんと思われるのが嫌だった
だがこんな私に対して
人生の中でもちろん自分が主人公だけど自分は他人に生かされている。だから生きていく上で他人のことは大事にしなくてはいけない。人の関わりの中では自分自身に素直に生きられたらそれが自分にも他人にも一番の幸せだよ
といってくれた人がいた
最初、これを言われた時はまったく自分に落とし込めなかった
でも面白いことに毎日、このことを自分の中で復唱することで
実践できるようになってきたように思う
意識することで、日々の中でいろいろな他人の優しさや気遣いにも気づけるようになった
ニコニコっと笑う赤ちゃんからは癒しをもらって幸せを分けてくれるし、友人は私のいうことに対して面白おかしくポップに返してくれて悩んでたことも馬鹿馬鹿しいと思わせてくれるし、下手くそなソフトクリームを頑張って作ってくれたおばちゃんにありがとうと思えているし、母親は寝ている私に優しく毛布をかけてくれるし
こう感じられるようになった時に、初めて自分は人に生かされているのだと気づけた、自分は他人から大事にされているし、優しさに囲まれて生きている
この人たちは人に好かれようとしているわけではなくて、ただ自分自身に素直に生きていた 。私は何を悩んでいたのだろうか
何が言いたいというかというと、
人との関わりは思ったよりもシンプルであるということ。私が複雑に考えすぎていた
別に他人と自分は交わる必要はなくて、平行線で進んでいけばいい
誰からも好かれよう好かれようと生きていた過去の私は
周りからみれば、さぞかし滑稽で見るに忍びなかっただろう
他人からの評価を気にするとは、結局自分を守っていることになるから自己中と変わりない。私が人との関わりに悩んだ過去にしてきていたのはこれだった
自分に素直に生きて、それを取り囲んでくれるひとたちを大事にすること
そう思えたら、人生の大半は人との関わりであるから
人生って結構シンプルじゃない
ということ